2013年8月10日 星期六

施金山窮畢生之力打造民俗村 /日本・台湾・韓国の劇団競演

日本・台湾・韓国の劇団競演 いいだ人形劇フェスタ 08月10日(土)

華やかな衣装を着けた人形で演じる台湾の「真雲林閣掌中劇団」の団員
情感を込めて人形を操る韓国の「劇団ロギナレ」の団員
 飯田市などで開催中の人形劇の祭典「いいだ人形劇フェスタ2013」の主要プログラムの一つで、日本と台湾、韓国の劇団が出演する「東アジア三大 人形劇フェスティバル交流公演」が9日、市内の市公民館で開かれた。同フェスタと台湾・雲林県の「雲林国際偶戯節」、韓国・春川市の「春川人形劇祭」の3 人形祭の友好提携5周年を記念して開催。出演3劇団が独特の劇で観客を魅了した。

 台湾の「真雲林閣掌中劇団」の公演では、団員が客席に近づいて人形同士による武術などを披露。韓国の「劇団ロギナレ」は布と紙などで作った「塩人形」が 海を求めて旅をする演目を上演。団長の根瑩(ペグニョン)さん(37)は「言葉が違うのでどう伝わったか分からないが、真剣に見てもらえてうれしい」と話 していた。

 日本からは、飯田市龍江に伝わる人形浄瑠璃「今田人形」(国選択無形民俗文化財)を伝承する今田人形座が出演。語り役「太夫(たゆう)」の金井ハマさん (100)の語りに合わせて、人形が驚きや悲しみを表現すると客席から拍手が起こった。東京都板橋区から訪れた仙北屋崇(せんぼくやたかし)さん(63) は「100歳の金井さんの太夫は印象に残った。海外の劇団も面白かった」と話していた。





施金山先生
【台灣生命力 】力挺台灣民俗文化 施金山窮畢生之力打造民俗村

施金山是台灣民俗村創辦人,也是個虔誠的道教徒,一生頗為傳奇,已八十高齡的他,談起他的風光事蹟,一點也不矯情,他說:「落土八字命」,一切早已命定,他只是照本宣科。

作者﹕採訪/攝影 張庭卉
施金山出生於彰化縣鹿港鎮,小學畢業後即跟隨父親從事農務,直到服完兵役,深感務農沒有前途,萌生轉行念頭。傳奇的一生
二 十歲時,經媒人介紹與鹿港鎮一位中醫師的千金結婚,太太婚前從沒下過田,婚後卻要跟著下田耕種,他看了不忍心,才下定決心改行做生意,但是沒有其他工作經 驗,更沒有人脈,實在想不出做什麼生意好。後來他發覺不動產將會是不錯的投資。於是決定開一家建材行,等生意逐漸穩定成長後。1967年,他開始投資不動 產,蓋預售屋,然後利用預收款與分期金再投資另一批不動產。
接著,他又投資了冷凍廠、養殖場,同時養了五個場的鰻魚,最後自己又做起鰻魚貿易,進口魚苗並出口鰻魚到日本。施金山形容,當時一噸鰻魚可以買一棟房子,五座魚塭年產300噸鰻魚,相當一年可賺進300棟房子,生意扶搖直上。
在商場上奮鬥了近40年,讓他累積了可觀的財富,他表示,若非命中注定,以他一個田庄囝仔,既無學歷,又無人脈,要闖出一片天談何容易。
歷史古蹟維護使者
1979年,時任省主席的謝東閔,指示要將八卦山地區開發成觀光旅遊勝地,施金山看到報導後,建商出身的他,看到了商機。1980年,他開始著手購買土地,前後花了八年的時間才向一百多位地主買齊了52公頃的土地。
在購買土地期間,他到世界各國參觀,發現各國遊樂區都建有民俗村,當時台灣還沒有。他說,兩蔣時期,不都表明將來要回大陸嗎?既然政府沒做,那就由他來做,讓台灣的傳統民俗文化有一處集中維護、傳薪、發揚的地方。
肩負著古蹟維護的使命,使得建園過程難度加大,國內外的設計師沒人敢承接,最後求教於鹿港的專家學者,共同商討後,決定找來各項目的專業設計師,一起打造民俗專區。
1990年開始動工興建、規劃。投資金額迄今已逾三十八億元,園區整體呈現的是台灣四百年來建築與人民生活的演變過程,儼然如一座戶外博物館。

仿建彰化市慶豐城
1993年完工開幕,在全台造成相當大的轟動,遊客如織,同時也為民俗村創造不少獲利;連年榮獲交通部觀光局評定為優良觀光事業單位。前總統李登輝先生於巡視民俗村後,既驚訝又讚嘆的表示,施金山以一個地方商人竟然能夠花費這麼多的時間跟金錢來保存台灣的民俗文化。
事業遇挫折 轉型再出發
施 金山的一生可說是一帆風順,他感激神明的庇佑、老天的眷顧。然而,1999年的921地震,幾乎要震垮他的事業王國。問他園區損傷有多大?他說,只倒了一 棵樹,園區建設完全沒受影響。只是中區被列為災區,民政局發文,請公務人員等不要到災區遊玩。自此,如日中天的盛況,不復可見。因此停業了二年,重新開業 後,台灣各地遊樂區如雨後春筍般,一家家的設立,現已多達二十幾家,競爭很激烈,經營日益艱困。
施金山說,他把一生奮鬥的成就與心血投注在文化村,921是他人生中最大的挫折,但他並不氣餒,反而更正面地應對。由於這幾年台灣社會消費型態的改變,施金山從中又嗅出了轉機,他說,現在台灣民眾注重休閒生活,朝休閒渡假村、溫泉SPA的方向走一定又是一片商機。
中二高與彰化東外環道的開通,讓往來民俗村的交通更加便捷,施金山已經做好再出發的準備,如果能有適度的資金投入,這將是他下一步要去開創的另一個事業顛峰。
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重建台灣400年歷史
台灣以往因過度追求新文明,而忽略了舊傳統、鄉土文化日趨沒落,也因為過份追求國際化而導致民族風貌盡失。
走 進台灣民俗村,彷若走入了時光隧道,過去先民一步一腳印開拓台灣的辛酸血淚,一頁一頁地呈現在眼前。有人形容施金山開創台灣民俗村,就像在種「文化神 木」。他在園區裡,以實地拆遷的方式,重建了瀕臨拆除的十餘棟老古蹟,仿建20餘棟,不同建材與型貌,自簡陋的竹草厝屋至磚造大厝及日據時期住屋、洋房到 現代大樓等,這在台灣是絕無僅有的記錄。
客家聚落
從 台灣各地遷建過來的古厝有:台南麻豆五房古厝(1877年建)、北斗奠安宮(1806年建)、嘉義一條龍、廖氏診所(台灣第一位女婦產科醫師診所)、新北 投火車站(1937年建)、留月山莊、柳營別墅(巴洛克式建築)、彰化三合院(1923年建)、鹿港古厝(1917年建)…等等。
麻豆古厝一磚一瓦原味重現

台灣第一位女婦產科醫師診所
施 金山指出,古建築遷移工程較大,從原地拆除前先作測繪、支解、編號,再重新組合、重建。這些人力與物力的耗費,往往更甚於新建。即使仿建古厝也是嚴格遵守 舊有規矩,不論形態、尺寸、材料、技術,全部遵從古法。由於台灣早期建物都是就地取材的土埆厝、石厝等,而現代建築師並沒有傳統建築的實際經驗,只能懇求 老師傅出馬相助,加上部分建材尚須遠赴大陸採購,故添增不少困難。
麻豆古厝牌樓左右兩側的詩詞字畫是獨有特色
目前文化村裡的台灣中部第一大城慶豐門、樟腦寮(早期伐樟製腦的工寮)、田尾農宅(竹管厝)、澎湖蔡進士第、北埔客家莊天水堂、鹿港不見天街等,皆是屬仿建古蹟。
不見天街牌樓
在 民俗村裡,除以各期不同形式之建築為主題,形成聚落景觀,並在這些古厝中展現許多即將失傳的台灣民俗技藝,如:打棉被、手工麵線、手工製紙、製香等。遊客 置身其間,更能深刻體會往昔台灣民間社會生活的真貌,了解台灣自明、清、日、光復以迄現在,朝代興替、滄桑浩劫及先民開拓的艱辛,共同愛護台灣,永遠珍惜 台灣。
民俗村是古厝安身立命之所,也給老樹新生機,移植老樹已達 200多棵。
採 訪期間,看著第二代經營者施孟宏先生如數家珍般的解說著各古蹟的因緣典故與特色,一磚一瓦、一土一木均是「大費周章」得來的。施孟宏說:「現在的景氣只能 勉強維持基本營運,要維護照顧這些古蹟真是有點心有餘而力不足。」見證台灣歷史文化的斑斑古蹟正面臨「年久失修」的窘境。即使面臨營運困境,站在慶豐城制 高點上瞭望園區的施孟宏仍然信心的表示,以民俗文化村現有的資源加上他們多年的經驗,如果有適當資金合作,民俗文化村一定能夠再現風華,也為台灣400年 的歷史文化留下珍貴記憶與見證。
施孟宏為遊客導覽鹿港不見天街的建築與特色
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新北投火車站在彰化
淡 水線鐵路,是台北到淡水間的重要支線。1910年通車,因應新北投風景區的開發,1919年增闢1.22公里長,北投至新北投支線並興建新北投站,是國內 僅存之典型東西混合式車站建築。1988年配合著捷運北淡線施工停駛,1989年12月16日由台北市政府捐贈給台灣民俗村復建,讓淡水鐵路之歷史滄桑, 得以長期展示,令人懷念。
日據時期,新北投車站原來就是為了溫泉觀光而產生的,設計上十分特殊,她雖是北淡線上的一站,但她是支線上的小支線,是中間站也是終點站。原為三等站,不過在1979年北投廢娼後,北投的溫泉事業一蹶不振,新北投火車站也由原先的三等站改為簡易站。
遷建後,透過再利用和重新規劃一系列的認識台灣鐵道文化活動,讓充滿懷舊歷史的老車站也因而被賦予新的使命,成功蛻變成代表台灣鐵道文化保存、推廣、發揚的殿堂。亦能使得更多的民眾了解過去的鐵道歷史及回憶,或許如此能不辜負老車站所經歷的輝煌歲月。
新北投火車站
近 年來,台北市北投社區居民對於新北投火車站早年被送給台灣民俗村感到不捨,積極爭取迎回老車站,希望能重振新北投地方繁榮。施金山則表示,新北投火車站是 一座木作老建築,當時也是費了好大功夫才安置到民俗村,若要再拆除一次遷回北投,一個古蹟恐怕是禁不起這樣的折騰。@*(http://www.dajiyuan.com)
9/9/2006 10:56:10 AM
本文網址: http://www.epochtimes.com/b5/6/9/6/n1446564.htm



台湾で100年前に建てられた駅舎が里帰り、施金山氏の尽力と木造駅舎の数奇な運命

グローバル 最新ニュース

 「台湾民族村」に移設されていた新北投駅の木造駅舎を、元あった台北市に再移設することが発表された。
The Epoch USA, Inc.
大紀元「力挺台灣民俗文化 施金山窮畢生之力打造民俗村」スクリーンショット
 現地の報道によると、新北投駅の木造駅舎が建設されたのは、日本統治時代の1916年。和洋混合式の木造建築で、1937年に増築されている。温 泉地として有名だった台北市の北投に、淡水線(1988年廃線)の終着駅として建設された。駅舎は廃線後に取り壊される予定だったが、彰化県の台湾民族村 に移設されていた。
 台湾民族村は、愛知県にある「明治村」のような建物を中心としたテーマパークで、台湾各地にある歴史的な建築物を、できる限り当時の工法で移設、展示している。
 この台湾民族村を建設したのが施金山氏だ。農家に生まれた施氏は、結婚後に不動産業やウナギの養殖で財を成し、観光業に可能性を感じて台湾民族村 の建設に着手する。1980年から土地の買収にかかり、1990年に着工、台湾各地に残されていた古い建築物を移設して、1993年にオープンした。そこ には施氏が1元(約3円)で買い取った新北投駅の駅舎も含まれている。52ヘクタール(東京ドーム約11個分)の敷地には、100を超える歴史的建築物の 他に、アトラクションや宿泊施設などもある。
巨大テーマパーク開園の反響は大きかったものの、経営は順調とは言えなかった。1999年の台湾地震では大きな被害を受け、競合レジャー施設の増加による利用者の低迷もあった。
 2007年に施氏が死去すると、残された負債を処理するために銀行が台湾民族村の競売を申請、当初27億元(約80億円)の入札価格は19億元 (約55億円)まで下がったものの、競売は不成立に終わっている。債権回収の中で、新北投駅の駅舎などに取り壊し計画が持ち上がったものの、彰化県が県定 暫定古跡(県文化財)として認定したため、そのまま残されることになった。
 これと同時に起きていたのが、駅舎が元あった北投住民による返還運動だ。県定暫定古跡の認定により運動が下火になっていたところに、運営会社から 台北市に寄贈したいとの連絡があり、100歳近い老駅舎が約20年ぶりに故郷の土を踏むことになった。8月8日には再移設を祝う記念式典が行われている。
 ■「台湾民俗村」紹介ページ(日本語)
http://www.themeparks.net.tw/japan/park/park13/index.asp
 ■大紀元「力挺台灣民俗文化 施金山窮畢生之力打造民俗村」(中国語)
(2006年に書かれた施金山氏の紹介記事、最後に新北投駅舎の写真と文章あり)
http://www.epochtimes.com/b5/6/9/6/n1446564.htm

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